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ちじんのあい
痴人の愛
谷崎 潤一郎
「大阪朝日新聞」1924(大正13)年3月~5月<br>「女性」1924(大正13)年11月~1925(大正14)年7月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 179,399 字 · 353 页
「あなたは河合さんですか、あの大森の?」
と、寝惚けた声で云うのでした。
「ええ、そうですよ、僕は大森の河合ですよ、どうもいつぞやは大へん御迷惑をかけてしまって、それに突然、こんな時刻に電話をかけて甚だ失礼なんですが、実はあの、ナオミが逃げてしまいましてね、―――」
この、「逃げてしまいましてね」と云う時、私は覚えず泣き声になりました。非常に寒い、もう冬のような朝のことで、寝間着の上にどてらを一枚引っ懸けたまま慌てて出て来たものですから、私は受話器を握りながら、胴顫いが止まりませんでした。
「ああ、ナオミさんが、―――矢っ張りそうだったんですか」
すると浜田は、意外にも、いやに落ち着いてそう云うのでした。
「それじゃあ、君はもう知っているんですか?」
「僕は昨夜遇いましたよ」
「えッ、ナオミに?………ナオミに昨夜遇ったんですか?」
今度は、私は前とは違った胴顫いで、体中がガクガクしました。あまり激しく顫えたので前歯をカチリと送話器の口に打ッつけました。
「昨夜僕はエルドラドオのダンスに行ったら、ナオミさんが来ていましたよ。別に事情を聞いた訳ではないんですけれど、どうも様子が変でしたから、大方そんな事なんだろうと思ったんです」