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ちじんのあい

痴人の愛

谷崎 潤一郎

「大阪朝日新聞」1924(大正13)年3月~5月<br>「女性」1924(大正13)年11月~1925(大正14)年7月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 179,399 字 · 353 页

青空文庫

そして右の方の手だけを使って、彼女の口の周りから剃って行きました。

彼女はうっとりと、剃刀の刃で撫でられて行く快感を味わっているかのように、瞳を鏡の前に据えて、大人しく私に剃らせていました。私の耳には、すうすうと引く睡いような呼吸が聞え、私の眼には、その頤の下でピクピクしている頸動脈が見えています。私は今や、睫毛の先で刺されるくらい彼女の顔に接近しました。窓の外には乾燥し切った空気の中に、朝の光が朗かに照り、一つ一つの毛孔が数えられるほど明るい。私はこんな明るい所で、こんなにいつまでも、そしてこんなにも精細に、自分の愛する女の目鼻を凝視したことはありません。こうして見るとその美しさは巨人のような偉大さを持ち、容積を持って迫って来ます。その恐ろしく長く切れた眼、立派な建築物のように秀でた鼻、鼻から口へつながっている突兀とした二本の線、その線の下に、たっぷり深く刻まれた紅い唇。ああ、これが「ナオミの顔」と云う一つの霊妙な物質なのか、この物質が己の煩悩の種となるのか。………そう考えると実に不思議になって来ます。私は思わずブラシを取って、その物質の表面へ、ヤケにシャボンの泡を立てます。