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いしかりがわ

石狩川

本庄 陸男

「石狩川」大観堂、1939(昭和14)年5月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 253,535 字 · 506 页

青空文庫

十

いま目の前にいたと思った阿賀妻は、もう船に乗りこんで、そこから呼んでいた。

底の浅い川崎船は思わぬ大勢の客を積みこんだ。堀大主典と、その向い合せには阿賀妻が、舷側に腰をかけ、杖づいた長刀の先に顎をのせていた。他のものは思い思いの場所にたたずんだ。黒い影のように見えた。舳の提灯が濁った水の色をぼんやり浮きだし、川波がちりちりと揺れてくだけていた。

向う岸のでこぼこには火影がもれ、ゆらゆらと近づくにつれて家屋のかたちが見えて来た。

ふなばたに砕ける波と、はるかなる海鳴りと、浜でたたく浪の音が別々に聞き分けられた。それぞれの音で、ろべそにきしる櫓の音に縫いあわされていた。

「阿賀妻さん」と堀大主典の声がした。

返事が無かった。ぴちゃぴちゃと川波の音が耳についた。

大野順平は腰をかがめて注意しようとした。すると彼は、近づけた自分の耳に、かすかな規則ただしい阿賀妻の鼾きごえをきいた。

十

「灯が見える――なんだ?」と、堀は、低い声で誰にともなくそう訊ねていた。

傍らのものが顔をあげ、上役の声の指さすあたりをあわてて探していた。

船はゆるゆる向きを変えるところであった。