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いしかりがわ

石狩川

本庄 陸男

「石狩川」大観堂、1939(昭和14)年5月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 253,535 字 · 506 页

青空文庫

身だしなみをする余裕もなければ、そういう環境でもなかった。俸禄は召しあげられ、武士は捨てさせられていた。名目は土民であった。気ッ風だけには何百年来の習慣がこびりついていた。だからまた、おちぶれ果てた妻の姿をこんなに近々と見た彼の胸には、こみあげるようなものがあった。それは自分をあわれむことであった。彼女は彼女で小者一人の供もなくなった夫の、丸腰に近い姿を哀しんでいたのである。

「その――サッポロとやらは、幾日の路でございます?」

「この度は、おそくも二日とはかかるまいと思われる」

それ以上、深くは聞かなかった。先日踏査したトウベツの土地払い下げのため開拓使庁に出頭することは知っていた。その成るか成らぬかを心配していると、それさえ口に出して云えなかった。彼女は云った。

「ずいぶん気をつけて――」

うす暗い光のなかで、彼女は三ツ指をついていた。それを軽く受けて一またぎの土間を抜けるのであった。まだ夜であった。黒い海を右手に見わたした。打ちよせる波の間断ない響きは耳に馴れている。何か、げきとした静寂のなかに踏みこんだ気持であった。

彼は、彼らのつくった粗末な聚落の間を、急ぎ足に――しかし、抜き足で通って行った。