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どうひょう
道標
宮本 百合子
第一部「展望」筑摩書房、1947(昭和22)年10月号~1948(昭和23)年8月号<br> 第二部「展望」筑摩書房、1948(昭和23)年9月号~1949(昭和24)年5月号<br> 第三部「展望」筑摩書房、1949(昭和24)年10月号~1950(昭和25)年2月号、1950(昭和25)年4月~12月号<br> 資料「展望」筑摩書房、1949(昭和24)年8、9月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 846,457 字 · 1672 页
奥から、食器類を洗っている音がする。伸子は、ドアから入った。そんな時刻にかかわらずニッケルの大湯わかしのコックから熱湯の湯気がふいていた。
「まあ、運がよかった! お湯を下さい」
大流しに積まれた皿類を洗っている女は、伸子が見たことのない四十がらみのひとだった。骨ばった、力のありそうな体つきで、たった一人、皿洗いしていたその女は、洗い桶のところから伸子を見た。
「どうぞ」
彼女はパジャーリスタとは云わないで、よく街頭の物売女がいうようにぞんざいにパジャーリチェと云った。ざらっとした声だった。顔だちや髪に荒れたところのある、だが身をもちくずしたというのでもないその女は、パッサージでは見かけることのすくないたちの女だった。
「どうして、こんなにおそくまで、お皿を洗っているの?」
ニッケル湯沸しのコックに空色ヤカンをあてがいながら、湯気の間から伸子がきいた。
「ドイツから代表がついたんです。彼らは、ついてから食べたんです」
「あなたは、臨時?」
「そうですよ」
皿を洗いながら、女は、
「臨時ってのは分がわるくてね、仕事がいつだって多いんだから……」
ぬれ手をあげて腕で、額をこすった。