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おおおかえちぜん
大岡越前
吉川 英治
「日光」1948(昭和23)年9月~1949(昭和24)年12月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 218,436 字 · 437 页
「それらの事も、覚えないか。むりもない。五ツの頃から、両親に死別し、以後は、人の子にして、人の子の情けを知らず、世間に生きながら、世間の何かも知らず、ただ人の世に漂うて生きて来ただけの女だ。……追ってまた、白洲へ呼び出すであろう。立て!」
と、越前守は、あっさり仮吟味を終って、目安、書記、同心たち一同へむかって、
「女を、仮牢へ下げい」
と、宣告した。
そして越前守が、つと、席を立ちかけると、それまでは、自分と自分との闘いに、唖のように悶えをかかえていたお袖が、突然、盲目的に身を起して、
「お待ちッ。お待ちよっ。市十郎!」
と、絶叫を浴びせた。
「すわ」
と、何事かを予期していた山本左右太は、まっ先に、お袖のうしろからその片腕を抑えた。
「何するんだえ、お前たちは」
お袖は、振りほどいて、奉行の席へ、飛びついて行きそうにした。しかし、たちまち大勢の同心たちが、彼女の狂いまわる力を、もとの白洲の上に、捻じ抑えた。
「…………」
越前守は、振り向きもせず、さや形模様の襖の内へ、退席してしまった。
人々もすぐ立つべきであった。また、傍聴の横目たちも、退席すべきである。