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おおおかえちぜん
大岡越前
吉川 英治
「日光」1948(昭和23)年9月~1949(昭和24)年12月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 218,436 字 · 437 页
「えっ。市十郎さまが、そんなことを」
「だからもうお袖さんも、あんなやつのことは、思いきって、ここはきれいに、帰るがましだとおらあ思うがネ」
「ほ、ほんとかえ。久助さん。市十郎さまが、おまえに、いったということは」
かの女は、にわかに身を起した。立ちよろめくのを久助があわてて抱き支えると、お袖は、久助の手へ、子を抱かせて、ひとり、よろよろと歩みはじめた。
「あっ、お袖さんっ。……どこへゆく。どこへ?」
追いすがる味噌久へ、
「うるさいね。もう、おまえなどに、頼んでいられるものじゃない。自分で、自分の男に会いにゆくのがなぜ悪い。市十郎さまの心をはッきりときかないうちは、私は死んでも帰らないよ。――お燕を抱いて、久助さんは、ひと足先に、帰っておくれ」
「ば、ばかなことを、いいなさんな。あいては、大身の武家やしき」
「その御大身ぶりが、癪にさわる。御大身なら女子をだましてもよいものか」
それはもう久助にいっているのではない。かの女は、彼方の灯にむかって叫んでいた。この丘から地続きの広い庭園の木の間がくれに、その灯は、冷ややかにまたたいている。――市十郎の心のように冷ややかに。