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ちじんのあい

痴人の愛

谷崎 潤一郎

「大阪朝日新聞」1924(大正13)年3月~5月<br>「女性」1924(大正13)年11月~1925(大正14)年7月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 179,399 字 · 353 页

青空文庫

「お父つぁんはもう居ないの」

「おッ母さんは?」

「おッ母さんは居るけれど、―――」

「じゃ、兄弟は?」

「兄弟は大勢あるわ、兄さんだの、姉さんだの、妹だの、―――」

それから後もこんな話はたびたび出たことがありますけれど、いつも彼女は、自分の家庭の事情を聞かれると、ちょっと不愉快な顔つきをして、言葉を濁してしまうのでした。で、一緒に遊びに行くときは大概前の日に約束をして、きめた時間に公園のベンチとか、観音様のお堂の前とかで待ち合わせることにしたものですが、彼女は決して時間を違えたり、約束をすっぽかしたりしたことはありませんでした。何かの都合で私の方が遅れたりして、「あんまり待たせ過ぎたから、もう帰ってしまったかな」と、案じながら行って見ると、矢張キチンと其処に待っています。そして私の姿に気が付くと、ふいと立ち上ってつかつか此方へ歩いて来るのです。

「御免よ、ナオミちゃん、大分長いこと待っただろう」

私がそう云うと、

「ええ、待ったわ」

と云うだけで、別に不平そうな様子もなく、怒っているらしくもないのでした。或る時などはベンチに待っている約束だったのが、急に雨が降り出したので、どうしているかと思いながら出かけて行くと、あの、池の側にある何様だかの小さい祠の軒下にしゃがんで、それでもちゃんと待っていたのには、ひどくいじらしい