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ちじんのあい

痴人の愛

谷崎 潤一郎

「大阪朝日新聞」1924(大正13)年3月~5月<br>「女性」1924(大正13)年11月~1925(大正14)年7月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 179,399 字 · 353 页

青空文庫

と記された標札の文字の古さと云い、ひろい庭を囲んでいる苔のついた石垣と云い、別荘と云うよりは年数を経た屋敷の感じで、こんな所にこんな宏壮な邸宅を持った熊谷の親戚があろうなどとは、思えば思うほど意外でした。

私は成る可く、砂利に足音を響かせないように、門の中へ忍んで行きました。何分樹木が繁っているので、往来からは母屋の模様はよくは分りませんでしたが、近寄って見ると、奇妙なことに、表玄関も裏玄関も、二階も下も、そこから望まれる部屋と云う部屋は悉くひっそりとして、戸が締まって、暗くなっているのです。

「ハテナ、裏の方にでも熊谷の部屋があるのじゃないか」

私はそう思って、又足音を殺しながら、母屋に添って後側へ廻りました。すると果して、二階の一と間と、その下にある勝手口に、明りがついているのでした。

その二階が熊谷の居間であることを知るには、たった一と目で十分でした。なぜかと云うのに、縁側を見ると例のフラット・マンドリンが手すりに寄せかけてあるばかりか、座敷の中には、たしかに私の見覚えのあるタスカンの中折帽子が柱にかかっていたからです。が、障子が明け放されているのに、話声一つ洩れて来ないので、今その部屋に誰もいないことは明かでした。