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ちじんのあい

痴人の愛

谷崎 潤一郎

「大阪朝日新聞」1924(大正13)年3月~5月<br>「女性」1924(大正13)年11月~1925(大正14)年7月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 179,399 字 · 353 页

青空文庫

と云いながら自分で自分の頭を打ったり、空家のように森閑としたアトリエの壁に向いながら「ナオミ、ナオミ」と叫んでみたり、果ては彼女の名前を呼び続けつつ床に額を擦りつけたりしました。もうどうしても、どうあろうとも彼女を引き戻さなければならない。己は絶対無条件で彼女の前に降伏する。彼女の云うところ、欲するところ、総べてに己は服従する。………が、それにしても今頃彼女は何しているだろう? あんなに荷物を持っていたから、東京駅からきっと自動車で行っただろう。そうだとすると浅草の家へ着いてから五六時間は立っている筈だ。彼女は実家の人々に対し、追い出されて来た理由を正直に話したろうか? それとも例の負けず嫌いで、一時遁れの出鱈目を云い、姉や兄貴を煙に巻いてでもいるだろうか? 千束町で卑しい稼業をしている実家、そこの娘だと云われることをひどく嫌って、親兄弟を無智な人種のように扱い、めったに里へ帰ったことのない彼女。―――この不調和な一族の間に、今頃どんな善後策が講ぜられているだろう? 姉や兄貴は勿論詫りに行けと云う、「あたしは決して詫まりになんか行くもんか。誰か荷物を取って来てくれろ」