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ちじんのあい
痴人の愛
谷崎 潤一郎
「大阪朝日新聞」1924(大正13)年3月~5月<br>「女性」1924(大正13)年11月~1925(大正14)年7月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 179,399 字 · 353 页
それに社内での私の気受けも、前ほど良くありません。精励恪勤、品行方正で「君子」の仇名を取った私も、ナオミのことですっかり味噌を附けてしまって、重役にも同僚にも信用がなく、甚だしきは今度の母の死去に就いても、それを口実に休むのだろうと、冷やかす者さえあるのでした。そんなこんなで私は愈イヤ気がさして、二七日の日に一と晩泊りで帰省した折、「そのうち会社を罷めるかも知れない」と、叔父に洩らしたくらいでした。叔父は「まあまあ」と云って、深くも取り上げてくれないので、又明くる日から渋々会社へ出ましたけれど、会社にいる間はまだいいとして、夕方から夜の時間が、どうにも私には過しようがありません。それと云うのが、田舎へ引っ込むか、断然東京に蹈み止まるか、その決心がつきませんから、私は未だに下宿住まいをするのでもなく、ガランとした大森の家に独りで寝泊りをしていたのです。
会社が済むと、私は矢張ナオミに遇うのが厭でしたから、賑やかな場所は避けるようにし、京浜電車で真っ直ぐ大森へ帰ります。そして近所の一品料理か、そばかうどんで型ばかりの晩飯をたべると、もうそれからは何もする事がありません。