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ちじんのあい

痴人の愛

谷崎 潤一郎

「大阪朝日新聞」1924(大正13)年3月~5月<br>「女性」1924(大正13)年11月~1925(大正14)年7月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 179,399 字 · 353 页

青空文庫

そんな折には彼女はいつも海水着の上に大きなタオルを纏ったまま、或る時は艫に腰かけ、或る時は舷を枕に青空を仰いで誰に憚ることもなく、その得意のナポリの船唄、「サンタ・ルチア」を甲高い声でうたいました。

O dolce Napoli,

O soul beato,

と、伊太利語でうたう彼女のソプラノが、夕なぎの海に響き渡るのを聴き惚れながら、私はしずかに櫓を漕いで行く。「もっと彼方へ、もっと彼方へ」と彼女は無限に浪の上を走りたがる。いつの間にやら日は暮れてしまって、星がチラチラと私等の船を空から瞰おろし、あたりがぼんやり暗くなって、彼女の姿はただほの白いタオルに包まれ、その輪廓がぼやけてしまう。が、晴れやかな唄ごえはなかなか止まずに、「サンタ・ルチア」は幾度となく繰り返され、それから「ローレライ」になり、「流浪の民」になり、ミニヨンの一節になりして、ゆるやかな船の歩みと共にいろいろ唄をつづけて行きます。………

こういう経験は、若い時代には誰でも一度あることでしょうが、私に取っては実にその時が始めてでした。私は電気の技師であって、文学だとか芸術だとか云うものには縁の薄い方でしたから、小説などを手にすることはめったになかったのですけれども、その時思い出したのは嘗て読んだことのある夏目漱石の「草枕」