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ちじんのあい

痴人の愛

谷崎 潤一郎

「大阪朝日新聞」1924(大正13)年3月~5月<br>「女性」1924(大正13)年11月~1925(大正14)年7月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 179,399 字 · 353 页

青空文庫

百日草や、おいらん草や、カンナの花の咲いている間から、その横顔と髪の毛だけが僅かにチラチラするだけでした。

男は私に気がつくと、帽子を取って会釈をして、

「じゃあ、又」

と、ナオミの方を振り向いて云いながら、すぐすたすたと門の方へ歩いて来ました。

「じゃあ、さよなら」

と、ナオミもつづいて立ち上りましたが、「さよなら」と男は、後向きのままそう云い捨てて、私の前を通る時帽子の縁へちょっと手をかけて、顔を隠すようにしながら出て行きました。

「誰だね、あの男は?」

と、私は嫉妬と云うよりは、「今のは不思議な場面だったね」と云うような、軽い好奇心で聞いたのでした。

「あれ? あれはあたしのお友達よ、浜田さんて云う、………」

「いつ友達になったんだい?」

「もう先からよ、―――あの人も伊皿子へ声楽を習いに行っているの。顔はあんなににきびだらけで汚いけれど、歌を唄わせるとほんとに素敵よ。いいバリトンよ。この間の音楽会にも私と一緒にクヮルテットをやったの」

云わないでもいい顔の悪口を云ったので、私はふいと疑いを起して彼女の眼の中を見ましたけれど、ナオミの素振りは落ち着いたもので、少しも平素と異なった所はなかったのです。