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いしかりがわ

石狩川

本庄 陸男

「石狩川」大観堂、1939(昭和14)年5月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 253,535 字 · 506 页

青空文庫

老人は命じた。

「墨をすりなさい」

「はい、はい」

「いや、墨はわしが磨らねばなりません、それ、お前さんは婿どのの前にその紙をひろげて――そう、わからんか」

婆アさんは云われるままであった。

大沼喜三郎がうしろに退いて座をひろげた。

巻いた唐紙をあおい畳の上に長くひろげた。

「いや文鎮を忘れてまいったな、いかん、いかん、それはわしがする、こちらに来て墨を磨りななさい」

忙しく立った拍子に彼は墨汁をこぼした。

阿賀妻はそちらに向き直った。長い紙の面を瞰下しながら右の肩を脱いでその袂をうしろに刎ねた。筆の穂を硯にひたしてたっぷり墨をふくませた。左の手を畳についてぬッと腰をのばした。乗りだして行くのだ。なまなましい昨夜の感懐は彼の脳裡にまざまざ書き列ねてある。握った筆は、それを文字に改めて紙の上に定着させるだけである。塵ほどの汚れめもないまッ白な地紙に、最初の筆をぶすりとおとした。瞬間おのれは無になった。筆を抱いて定法なく、虚にして寛ならしむるのみである。王羲之風の独草がそこに書き進められていた。

書かれた文字は、書く人の胸から離れて、とたんに、その感懐をあたりのものに反射した。