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おおおかえちぜん

大岡越前

吉川 英治

「日光」1948(昭和23)年9月~1949(昭和24)年12月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 218,436 字 · 437 页

青空文庫

采女と呼んで

「おそれ入ります。……が、もう少々、長い目で御覧じくださいませ」

藪田助八は、頭を掻いたり、平伏したりした。けれど、真底から恐懼しているふうでもない。かれは、吉宗もまた新之助とよばれていた部屋住み時代には、一個の町の不良児だったことを、たれよりもよく知っていた。

采女と呼んで

十日ほど後。――藪田助八はまた彼の仮住居へもどっていた。

近頃、かれが折々すがたを見せる仮住居というのは、例の牛込柳町の市川楽翁の隣家である。家主も隣の楽翁なら、留守中の戸締りも、食事の世話も、一切、隣賄いというわけで、彼にとれば、こんな気楽な借家はあるまい。

その代り、彼の咳ばらいか声でもすると、案内なしの庭づたいに、すぐ楽翁がやって来る。病家の迎えか、患者でも来ない間は、この医者は、隣家に入り浸りで、碁を打ち、世事を語り、時にはひそひそと何事か膝づめで密談していた。

「楽翁どの。南の与力たちは、あれきりかの」

と、今日も二人は、二階の一室で話しこんでいた。

「されば。あれきり、やッて来おりません。お燕は井戸へ身を投げたし――その墓石はこの通り――といい張ったので、あの深い井戸の址を、掘り返して見ることもならず、余儀なく、手を引っこめたものとみえます」