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どうひょう
道標
宮本 百合子
第一部「展望」筑摩書房、1947(昭和22)年10月号~1948(昭和23)年8月号<br> 第二部「展望」筑摩書房、1948(昭和23)年9月号~1949(昭和24)年5月号<br> 第三部「展望」筑摩書房、1949(昭和24)年10月号~1950(昭和25)年2月号、1950(昭和25)年4月~12月号<br> 資料「展望」筑摩書房、1949(昭和24)年8、9月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 846,457 字 · 1672 页
「わたしたちは、あなたの伝統に敬意を表しましょう。このマドモアゼルは、主に英語を話しますから」
「そうです、そうです、ムシュウ」
年よりの角顔に、安心したような、気のいい微笑が浮んだ。
「さようなら、マドモアゼル」
老人は、子供の時分から見なれて年月を経た大木をいつか愛しているように、自分の下宿の伝統を愛しているのだった。
その日、伸子と蜂谷良作は、もうひとところの貸室を見た。セイヌ河のむこうにあるアトリエだった。古い寂しい横丁に面した一つの石門をはいると、そのすぐ右手に住みすてられたようなアトリエがたっていた。趣味のある大きい鉄の蝶番つきの小扉をあけると、そこがもう煉瓦じきのアトリエの内部だった。なかくぼに踏みへらされた煉瓦の床に窓からの日かげが流れていて、高いガラス張りの天井から落ちる光線が、うっすり埃をかぶった中二階の手すりや、その辺のがんじょうな木組みを見せている。いつ舞いこんだか、床にマロニエの枯葉がころがっている。
それは荒廃したアトリエだった。ほんとに仕事をする場所としては、もう役に立たないところかもしれなかったが、伸子の目にうつる廃屋めいた風情は、空想をそそった。