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ちからもち

力餅

島崎 藤村

「力餅」研究社、1940(昭和15)年11月

N3 · 进阶 · 新字新假名 · 65,974 字 · 130 页

青空文庫

二 斎藤さんの羽織のひも

思うさま声を出して本を読んでいる人の声です。それが往来まで聞えてきているのです。声を出して本を読むことはわたしも好きですから、しばらくそのへいの外に立ち聞きしていました。

はて、どういう人が住むのかと思いまして、その家の門口に出ている表札をのぞきましたら、少年のころに神田の共立学舎で物を教わった長沢先生の名が出ておりました。どうも聞いたことのある声だとは思いながら、その表札を見るまでは思い出せなかったのですが、やはり声の主人は自分の古い教師でした。ゆかしく思いました。

二 斎藤さんの羽織のひも

ある日、わたしは斎藤さんとむかいあってすわっていました。斎藤さんは号を緑雨といい、別に正直正太夫ともいって、筆とり物を書く上ではわたしたちの先輩にあたりました。正直正太夫と名のるくらいですから、ひととちがったところがありまして、どうもあの斎藤さんの目つきはよくないと、世間には毛ぎらいするものもなくはありませんでしたが、しかしうわついたところなぞは少しもなく、わたしのお友だちはみな感心していました。この斎藤さん、記憶のいいことも評判で、たいがいのものが忘れてしまうようなことまでよく覚えている人でしたが、わたしと話している間に何か思いついたことがあると見え、小さな紙のきれをくれと言うのです。