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ちからもち

力餅

島崎 藤村

「力餅」研究社、1940(昭和15)年11月

N3 · 进阶 · 新字新假名 · 65,974 字 · 130 页

青空文庫

ところが、こいの胆を取ることを忘れたのです。さて、老人をお客にして、いっしょにはしをつけてみると、わたしの煮たこいは苦くて、大笑いしたこともありました。

その時、老人は日ごろ書きためた自作の和歌や発句を持ってきてわたしに見せてくれました。じょうずとは言えないまでも、正直に思いをのべたものでした。おそらく、百姓を相手としての長い鳥居川村のいなか暮らしが、そんな和歌ともなり、発句ともなったのでしょう。わたしはまたこの来助老人が筆持つ腕に重い石をしばりつけるほどにして書道のほうにも工夫を積んだ人と聞いていましたから、何か記念に書いてほしいと頼みました。老人が言うには、自分は無学なものであるから、書いてあげるような文句も胸に浮かばないが、ことばさえ選んでくれるなら、よろこんで引き受けるとのことでした。そこでわたしは日ごろ暗誦するくらいに好きな古いシナ人の詩のことばを選んでおくりましたが、やがてそれができたといって届けてくれたのを見ると、じつにみごとな筆で、これにもわたしはおどろかされました。

人の一生はふしぎなものですね。来助老人のような刀鍛冶が近江の片いなかに埋もれぎりになってしまわないで、また東京に出る日を迎えようなぞとは、老人自身ですら夢にも思わなかったことでしょう。