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おおおかえちぜん

大岡越前

吉川 英治

「日光」1948(昭和23)年9月~1949(昭和24)年12月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 218,436 字 · 437 页

青空文庫

自暴の原野

「ああ、いいあんばい、気がつきましたね。お侍さん。……このままでいたら、凍え死んでしまう」

市十郎は、おもいがけない女の声に、顔を上げた。

自分の上に、蛇の目傘が、ひらいている。

世間は静かな雪の夜になっていた。傘の下をのぞいては、その美しい柔らかな冬の華が、降りしきっているのである。まだ、五体に何の感覚もよみがえらない市十郎の眸は、ぼうとその幻光に見惚れていた。

「起てますか。……起てなかったら、わたしの腕につかまって」

傘の柄を持ち代えて、女は、彼へ肱を向けた。市十郎は、初めて、お高祖頭巾の顔を見つめて、

「あ。どなたか知らぬが、ありがとうございます。かたじけない」

と、頭を下げた。

「その辺まで、お歩きなさいな。どこまでお帰りか、駕籠を見つけて上げますから」

いわるるままに、市十郎は、女の肱につかまって起った。そして、傘の下に、援けられながら、やっと歩き出した。

自暴の原野

ゆうべからの雪は、今朝もまだチラチラ小やみを見せたり、降ったりしていた。

年暮も十四日と迫っていたが、この雪に、世間の朝はひっそりして、どこかで朝稽古の三味線の音さえする。

市十郎は、夢うつつに、糸の遠音を、寝床の中で聞いていた。