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ろうごくのはなよめ

牢獄の花嫁

吉川 英治

「キング」大日本雄辯會講談社、1931(昭和6)年1月~12月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 162,213 字 · 325 页

青空文庫

「それにしても、九年もあの上に住んでおいでになるとは、根気のいいことだ」

「何しろ、よほど変り者の殿様とみえる」

と、密かに噂するくらいな知識しか持たなかった。

すると。

春も二月の末頃、その四明ヶ岳の麓に近い湖畔の宿場に、三度笠をかぶって小風呂敷を腕頸に結びつけた商人ていの男が、ふらりと坂本の茶店をさし覗いて、

「姐さん、少し休ませて貰うぜ」

と、葭簀の蔭に腰を下ろした。

「いらっしゃいまし。叡山へご参詣でございますか」

「叡山へ? あ、成程、ここは叡山の登り口だね」

「はい、中堂からお薬師様の道順を書いてあるお山案内もございまする。横川巡りをなさいますならば、白木の杖や草鞋、お弁当のお支度もいたしまする」

「なに、あっしは叡山へ参詣に来た者じゃないのさ。この通り、忙しなく諸国を駈け歩いている木綿屋の註文取りで、名所を踏みながら名所知らずで、ちッとも閑のねえ旅商人だよ」

「おや、お急ぎでございますか」

「これから北国へ廻らなけれやならないが、せめて、掛金でもよく集るように、麓から拝んでおこう」

「ホホホホ。それはどうも」

「姐さん、もう一つ」

「お茶でございますか」