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ろうごくのはなよめ

牢獄の花嫁

吉川 英治

「キング」大日本雄辯會講談社、1931(昭和6)年1月~12月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 162,213 字 · 325 页

青空文庫

宵の丁字

宵の丁字

近国の知行所へ主が立ってしばらく留守中の富武家には、その夕方も、まだ、五百之進のすがたは見えなかった。

で、夜ははやくから、屋敷の数ある戸を閉め切って、灯も、微かだった。

そう風があるわけでもないのに、庭まわりの樹木が、時折、梢までうごいた。白い宵の星が、裏河岸の火の見櫓から、寂とした留守の空気をのぞいていた。

「おや? ……」

奥の部屋へ今、行燈を運んで行った花世は、ふと耳を澄ましながら、仄暗い隅の机に向っている若い侍へ、眸を向けた。

「何か、裏の方で、人の跫音がしたようではございませぬか」

「気のせいでしょう」

と、若い侍は、疲れた眼を、書物の上から離して、

「お父上からは、まだ、飛脚が参りませぬかの」

「オオ、夕方の用にまぎれて忘れておりました。あなたのご依頼の用もすみ、ほかの公用も片づいたから、もはや、間もなく帰る、郁次郎どのに、何事も、心配せぬように、とくれぐれも書いてござりました」

「お礼の申しようもござりませぬ」

「そんな、他人行儀なことを……」

灯にかこつけて、行燈と共に、郁次郎のそばへ摺り寄って、

「どんな苦しみをしても忌いませぬ。ただ、末かけて、お忘れくださいますな」