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やなぎばしものがたり
柳橋物語
山本 周五郎
前編「椿 創刊号」山本周五郎一人雑誌、1946(昭和21)年7月<br>中・後編「新青年」1949(昭和24)年1月~3月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 104,300 字 · 202 页
こうしてまた昔語りが始まるのだった。
幸太が来ているとき、おせんはなるべく店へ出ないようにした。偶に顔が合うと、幸太はきまって眼で笑いかけた。粗暴な向う気の強い彼には珍しく、おとなしいというよりはなにか乞い求めるような表情だった。あの人はなにか考えているのだろう、お祖父さんがはっきり断わったというのに、まだあたしのことをなんとか思っているのかしら、……おせんは彼のそういう眼つきが不愉快で、いつもすげなく顔をそむけ、さっさと台所のほうへ去って来るのだが、幸太はそれで気を悪くするようすもなく、殆んど三日にあげずやって来ては話しこんでいった。
おせんはその前の年の春から、午まえだけお針の稽古にかよっていた。そこは大通りを越した福井町の裏にあり、お師匠さんはよねという五十あまりの後家で、教えるのは嫁入り前の娘にかぎられていた。おせんは無口でもあり、家も貧しかったから、そこではかくべつ親しくする者もなかった。出入りの挨拶をするほかは世間ばなしにも加わらず、たいてい隅のほうに独りで坐っていた。娘たちもしいて馴染もうとはしなかったが、そのなかで天王町のほうから来るおもんという娘だけは、しきりにおせんに近づきたがった。