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やなぎばしものがたり

柳橋物語

山本 周五郎

前編「椿 創刊号」山本周五郎一人雑誌、1946(昭和21)年7月<br>中・後編「新青年」1949(昭和24)年1月~3月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 104,300 字 · 202 页

青空文庫

中篇

一

「おせんちゃん」と、彼は喉に水のからんだ濁音で叫んだ、「……おせんちゃん」

そしてもういちどがぶっという音がし、幸太は水の中へ沈んでしまった。おせんは憑き物でもしたように、大きな、うつろな眼をみはって、いつまでもその水面を見つめていた。彼女のふところで、赤子がはげしく泣きだした。

中篇

一

江戸には珍しく粉雪をまじえた風が、焼けて黒い骨のようになった樹立をひょうひょうと休みなしに吹き揺すっていた。寒いというより痛い、粟立った膚を針でうたれるような感じである。どっちを眺めても焼け野原だった、屋根も観音開きも無くなり、みじめに白壁が剥げ落ちて、がらん洞になった土蔵があちらこちらに見える。それは倒れ残った火除け塀や、きたならしく欠け崩れた石垣などと共に焼け跡のありさまを却ってすさまじくかなしくみせるようだ。晴れていたら駿河台から湯島、本郷から上野の丘までひと眼に見わたせるだろう、いまは舞いしきる粉雪で少し遠いところは朧にかすんでいるが、焼け落ちた家いえの梁や柱や、焦げ毀れた家財などの散乱するあいだを、ひどく狭くなった道がうねくねと消えてゆくはてまで、一望の荒涼とした廃墟しか見られなかった。