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ろうごくのはなよめ

牢獄の花嫁

吉川 英治

「キング」大日本雄辯會講談社、1931(昭和6)年1月~12月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 162,213 字 · 325 页

青空文庫

「ええ、どうして逃げるんだ。――人違いじゃない、おれは、郁次郎だ。おれを、救いに来てくれたのではないのか」

彼は、冷たい床の上へ、仰向けに倒れて、輾転ともがき廻った。――保土ヶ谷の宿で聞えた尺八の鈴慕の譜が耳のなかに甦ってくる。

ああ、それもこれも、気のせいかも知れない。会いたい会いたいと思う一念が幻を描くのかも知れない。

もう、有明けの燈芯皿ほども、精気のない彼の肉体は、すぐに、綿のようにつかれてしまった。なんの気力さえないように、ぐったりと、動かなくなった。

ただ、涙だけが、その青い頬を止めどなく流れていた。

がちゃりと、錠を外す音がした。

同時に、黄いろい提灯の明りが、牢格子の間からさして、

「老先生、こちらでございます」

と、先に、案内をして来た羅門塔十郎の声がした。奉行の主計頭、東儀与力の影も、そこに映した。

「おう」

老先生は、開かれた牢内へ、よろぼいながら駈けこんで、

「郁次郎! 郁次郎!」

と、呼び立てた。

「――郁次郎はどこにおる」

「えっ」

むっくりと、起き上がった我が子! 我が子の影。

「おう!」

と、老先生は、とびつくように近づいて、ひしと彼の腕を、握りしめた。