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ろうごくのはなよめ
牢獄の花嫁
吉川 英治
「キング」大日本雄辯會講談社、1931(昭和6)年1月~12月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 162,213 字 · 325 页
「いったいそれは、どこの何人でござりますか」
「名をいえば、お前も知っていよう、大坂町方役では錚々の聞えある若与力、羅門塔十郎だよ」
「えっ、羅門塔十郎が、いま江戸表へ来ておりますか」
「あれや、大塩の洗心洞出身で、いわば、藍より出でて藍よりも濃い男、その上にまだ勉強する気で、こっそりと東都に居をかまえ、お膝下の奉行所の組織、番屋川筋見張等の配置から、江戸流捕物術と上方流との比較など、なかなか研究しているらしい上に、余暇には聞えのある学者を訪ね、谷文晁の画塾へ通ったりして、絵などもやっているという話、わしの所へも一、二度やって来たが、どうも若いに似あわん落着きのある人間だよ。ああいうのが鬼才というのだろう」
「ちっとも存じませんでした」
「礼をつくして、いちど相談してみるがよい」
「そういたしましょう」
「じゃ、わしはあちらに、伜の許嫁花世さんが、何か用事があって来ているらしいから、これでご免をこうむるよ」
と、老先生は愛縄堂を出て、
「オオいい秋日和じゃの。……郁次郎もこのぶんでは、道中つつがなく、帰府の旅をいそいでおるじゃろう」
と空を仰いでも、親心に、やがて長崎から帰るわが子のことを思いながら、歩調ゆるく、養生所の方へ行ってしまった。