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やなぎばしものがたり
柳橋物語
山本 周五郎
前編「椿 創刊号」山本周五郎一人雑誌、1946(昭和21)年7月<br>中・後編「新青年」1949(昭和24)年1月~3月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 104,300 字 · 202 页
それから佐野正の店の者が来て、医者も呼んだらしい、少しおちつくのを待って平右衛門町まで送って呉れたのだそうである。しかしそれらのことはもとより、それからのち半月ばかりの明け昏れは、まったく夢のようで記憶がなかった。その期間はすべて幻視と幻聴で占められていた。なかでも鮮やかなのはあの訴えの声であって、それだけは意識が恢復してからも、一語一語がはっきりと耳に遺っていた。
そういう状態であったから煮炊きも出来なかった。幸太郎の世話だけはするけれども、敷いてやらなければ夜具を出す気もつかず、眠くなると平気でごろ寝をしたという。またそのあいだに松造が二度来たけれども、おせんは気違いのように地だんだを踏み、庄さんに疑われるから帰れと叫んできかなかった。松造は、しかたなしに持って来た物を置き、なお幾らかの銭を預けて帰ったそうである。――こうして前後二十日ほどのあいだ、おもんが起きてすべてをひきうけた、食事はもとより、買い物にもゆき洗濯もした。ゆだんしていると、おせんは夜中にも外へ出るので、おちおち眠ることも出来なかったということだった。
九月になって袷を着てから間もなく、おもんが幸太郎の肌着を洗っていると、おせんがぼんやり近寄って来て、今日はなん日だろうかと訊いた。