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やなぎばしものがたり
柳橋物語
山本 周五郎
前編「椿 創刊号」山本周五郎一人雑誌、1946(昭和21)年7月<br>中・後編「新青年」1949(昭和24)年1月~3月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 104,300 字 · 202 页
おせんは柳河岸へいった。地蔵堂より少し下の、神田川のおち口に近い河岸へ、――そこは、あの火事の夜、お祖父さんや幸太と火をよけていた場所である。あのときは石置場であったが、今はとりはらってなにもなく、岸に沿って新しく柳が植えられていた。……おせんはあのときのあの場所へいって跼み回想のなかへ身をしずめるようにそのまわりを眺めまわした。そこに石が積んであったのだ、今ついそこの眼のまえにある石垣につかまって川の中へはいった、石垣の端のその石へつかまっていたのである――ひき潮どきなのだろう、明るい空の雲をうつして、川波は岸を洗いながらかなり早く流れていた。
おせんは眼をつむり、両手で顔を掩いながらじっとあの声を聞こうとした。幾たびも幻聴にあらわれ、今では言葉のはしから声の抑揚まで思いだすことのできるあの声を。――おれはおまえが欲しかった、その声はこう云いだす。ごうごうと焔の咆え狂うなかで、おせんのそばに跼み、その耳へ囁くように云うのである。
――おまえなしには生きている張合もないほど、おれはおせんちゃんが欲しかった。十七の夏から五年、おれはどんなに苦しい日を送ったかしれない、おまえはおれを好いては呉れない、それでも逢いにゆかずにはいられなかった、いつかは好きになって呉れるかもしれないと思って。