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やなぎばしものがたり
柳橋物語
山本 周五郎
前編「椿 創刊号」山本周五郎一人雑誌、1946(昭和21)年7月<br>中・後編「新青年」1949(昭和24)年1月~3月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 104,300 字 · 202 页
、しきりになにかしていた。火桶もなし、隙間から吹きこんで来る風で、板敷の店は凍るほど寒いに違いない。驚かしてはいけないと医者にきびしく注意されているので、おせんは、そっと近よっていった。……源六は庖丁を研いでいた。不自由なからだでどうしたものか、研ぎ台も水盥もちゃんと揃えてあった。蒲で編んだ敷物にきちんと坐って、きわめてたどたどしい手つきで庖丁を研いでいる。然しそれはひじょうな努力を要するのだろう。鬢から頬にかけて汗が幾すじも条を描いていた。
治りたいのだ、薬も祈祷も験がない、だがどうかして治りたい一心から、せめて仕事で馴らしたらと考えたのではなかろうか、それともあまりながびくのが不安で自分をためすために砥石に向ってみたのだろうか、どちらにしてもこの寒夜に独り起きて汗をながしながらひっそりと研ぎものをしている、そのたどたどしい、けれどけんめいな姿は、哀れともいたましいとも云いようがなく、おせんは堪りかねてお祖父さんと叫び、その腕へとりついたまま泣きだしてしまった。
「泣くことはないじゃないかおせん」源六は穏やかに笑いながら孫の背へ手をやった、「……風が耳について、眠れないから、ちょっといたずらをしてみただけだよ」