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ろうごくのはなよめ

牢獄の花嫁

吉川 英治

「キング」大日本雄辯會講談社、1931(昭和6)年1月~12月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 162,213 字 · 325 页

青空文庫

保土ヶ谷には、本陣めいた大きな旅籠はなかった。青砥屋という商人宿の泊り客を残らず他へ移して、

「今夜は、ほかの合客は一切まかりならんぞ」

と、いう言い渡しで、総勢二十四、五名、ぞろぞろと、草鞋を解いた。

軍鶏籠は、籠のまま、炉部屋の次の煤けた板敷の隅へ担ぎ上げられた。無論、郁次郎は食い物も寝るのもそのまま、閾際には、寝ずの番が三名、夜どおし眼を光らしている。

宵のうち、宿場の通りを、細い尺八の音が、流れて行った。

籠の中に、瀕死の病人のように、昏々と呻いていた郁次郎は、その音を聞くと、針で神経を突かれたように顔を上げたが、すぐにまた、ぐったりと首を垂れて、

「人違いか……」

と、呟いた。

更ける。――深々とその夜は更けて行く。

たった一つ、消し残された行燈の燈芯皿にも丁字が霞んで、軒ばの夜露が、雨だれのように淋しく夜を刻んでいる。

屋の棟も三寸下がる――という時刻である。

郁次郎の軍鶏籠の置かれてあるすぐうしろの窓の外で、何者か、しめやかに歌口をしめして、尺八を吹く者があるではないか。

鈴慕の曲。夫を恋う女鹿の想いを憐々と竹枝のほそい孔から聞くような鈴慕の哀譜であった。