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ろうごくのはなよめ
牢獄の花嫁
吉川 英治
「キング」大日本雄辯會講談社、1931(昭和6)年1月~12月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 162,213 字 · 325 页
「よいか」
「分りました」
「こんどが、恐らく、事件の峠だろう。ひとつ、働いてくれい」
「死身になって、やってみます」
「すべて、わしの言った手順どおりにな」
「心得ました」
まだどこか、体の傷手が、癒え切っていないような彼ではあったが、もうその影は、夕闇の往来へ、紛れこんでいた。
その晩――
本石町の佐渡屋の店へ入って行った彼は、夜が更けても、そこから帰った様子がなかった。翌日も、出て来なかった。彼が奥へはいる時に脱いだ草履は、店の者の手に紙包みにされて、下駄箱に隠されてあった。
そうして、櫓下のお半殺しが、江戸の町に喧伝されて、まだ噂も消えない四日目の黄昏れ頃である。
「こんばんは……」
と、やさしい女の声で、灯がついたばかりの店の蔀障子が開いた。
「誰かいないんですか」
女は、土間にはいって、帳場を見まわした。
帳場には、生憎と、誰もいない。
ただ、暖簾をたたんで、店の地袋へ、仕舞いこんでいた小僧が、金行燈の明りに、振り顧って、
「あ……」
と、何かに、恟っとしたように、女を見た。
「誰も、店の衆は、いないのですか」
「へい、おります」
その声までが、妙に、ふるえていた。