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ろうごくのはなよめ
牢獄の花嫁
吉川 英治
「キング」大日本雄辯會講談社、1931(昭和6)年1月~12月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 162,213 字 · 325 页
「何者だ」
と、呶鳴った。
「老先生です」
と、八弥が答えた。
「なに、江漢老人が? ――」
と、一度は恟ッとして、狼狽したが、彼の癖として、すぐに虚勢を張った。
「誰であろうと、駕のまま、奉行所へ乗り入れるとは不埒である。駕を戻して、歩き直して来い」
「いや、老先生は、ご重態です。一歩も、歩行はできません」
「やっ、病気か」
「太刀傷です。仔細はあとでお聞きなさい」
八弥は、対手にしなかった。何よりも、老先生の容体が気づかわしい。荒い呼吸づかいは、ここへ駈けてくる間にも、聞きとれたくらいである。
「郁次郎、郁次郎はいるか。郁次郎は達者でいるか……」
花世と八弥に、抱え出される間にも、老先生は、囈言のように、口走っている。
「オオ! 父上」
「伜か」
「ど、ど、どうなされました。この血は、おお、この血は!」
「驚くな、伜よ。こんなことは、四十年間十手をとっていた生涯の間に、とうにあってよいことだ。……おまえと、花世の婚礼に、わしは、世の中の何ものよりも強い、何ものよりも真実な、真っ赤な、神の美酒をここへ湛えて来たんじゃ。驚いてくれるな」
老先生は、だんだんに落着いて、左に、花世の手を握った。