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ひのとびら
火の扉
岸田 国士
「時事新報」1944(昭和19)年1月1日~7日、1月9日~2月25日、3月1日~3月5日、3月7日~3月8日、3月11日~3月15日、3月18日~3月21日、3月25日、3月27日~3月29日、4月1日~4月3日、4月7日~4月11日、4月15日~4月19日、4月24日~5月4日、5月6日~5月9日、5月13日~5月17日、5月20日、5月22日~5月24日、5月27日~5月31日、6月3日~6月8日、6月12日~6月17日、6月19日~6月22日、6月24日~6月26日、6月28日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 129,467 字 · 257 页
とつぜん、市ノ瀬牧人は、立ちあがるといつしよに言つた。
「そうねえ、べつに……」
「わしにはどんなものがえゝかわからんで……。じや、ごめんなすつて」
出て行こうとして、今日はなぜかいつもほど晴れ晴れとした気持になれないことを、市ノ瀬牧人は感じた。
井出夫人の目礼には、相変らずの微笑があふれ、どこがどうと変つたところはないのだが、たぶん話題のせいであろうと思う。
それにしても、井出夫人は、今日は最初からふだんよりも鋭さを示してはいなかつたろうか? おなじ無遠慮な口をきくにしても、いつもはもつとふわりとした手ざわりのもので、あとへなにひとつ苦みはのこらないのに、今日に限つて、じようだんのつもりではあろうが、あの、ちくり/\と批評めいた言葉をはさむことが、そも/\今日の会話をあと味のわるいものにしたのではあるまいか? しかし、ほんとにあと味がわるいと言えるか、と、自分自身に問うてみれば、決してそうとばかりも言えないのである。今まではどちらかと言えば、たゞとりとめもない話がおもで、一個の女性のにおやかな肉体と精神の火花が彼をわけもなく酔わせていたにすぎなかつた。