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ひのとびら

火の扉

岸田 国士

「時事新報」1944(昭和19)年1月1日~7日、1月9日~2月25日、3月1日~3月5日、3月7日~3月8日、3月11日~3月15日、3月18日~3月21日、3月25日、3月27日~3月29日、4月1日~4月3日、4月7日~4月11日、4月15日~4月19日、4月24日~5月4日、5月6日~5月9日、5月13日~5月17日、5月20日、5月22日~5月24日、5月27日~5月31日、6月3日~6月8日、6月12日~6月17日、6月19日~6月22日、6月24日~6月26日、6月28日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 129,467 字 · 257 页

青空文庫

と、市ノ瀬の方へ眼で笑つてみせる。

「やあ、自慢にはなりませんよ。この土地にはどうも名所つていうもんがないでね。天竜峡つて騒ぐけれども、あんなもの、どこにだつてあるしね」

「それでいゝのよ。こゝが名所だつていうようなところに、ろくなところはないわ。ほんとにいゝ景色だつていうところは、なにもかもぜんたいがいゝんですもの」

「じや、下伊那はどうだね? ぜんたいがいゝですか?」

「さあ……」

こんなむだ口をきゝあつているうちにも、彼女には、市ノ瀬牧人の、なんとかしてこつちの満足をかち得ようと心を砕いている様子があり/\とわかつた。そして、どうかすると、それが思うようにいかない当惑のしかたは、いじらしく、おかしかつた。

はじめて会つたころは、どことなく、ひと癖ありそうな、物に動じない、しんの冷たい男にみえたのに、ちかごろは、まるで気のおけない、時としては、おど/\しているようにさえみえる、一個のいなか書生にすぎない彼のこの変りようを、彼女は、しかし、たゞの変りようだとは思つていなかつた。この素ぼくな男ごころに、すこしでもそれらしく感応するためには、彼女は、あまりに成熟していたというほかはないのである。