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むすめえんじゅつし

娘煙術師

国枝 史郎

「朝日新聞」1928(昭和3)年8月26日~1929(昭和4)年2月22日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 267,766 字 · 530 页

青空文庫

と、拍子木の音がしたが、非常を警めているのでもあろう。丸太町あたりと思われる辺から、人をとがめる犬の吠え声が、猛々しくひとしきり聞こえて来たが、拍子木の音の遠のいたころに、これも吠え止めてひっそりとなった。

一軒のお長屋の土塀を越して、白木蓮の花が空に向かって、馨ばしい香いを吐いている。

くもるとも

なにかうらみん

つき今宵

はれを待つべき

みにしあらねば

紅色のかった振り袖を着て、髪を島田に取り上げている、まだ十八、九の年ごろの娘が、一軒一軒お長屋の土塀へ、楽書きをして行く文字といえば、このような一首の和歌なのであった。

京都所司代の役目といえば、禁闕を守衛し、官用を弁理し、京都、奈良、伏見の町奉行を管理し、また訴訟を聴断し、兼ねて寺社の事を総掌する、威権赫々たる役目であって、この時代の所司代は阿部伊予守で、世人に恐れはばかられていた。したがってこれに仕えている、小身者の番士なども、主人の威光を笠に着て、威張り散らしたものであった。

そういう番士のお長屋の土塀へ、若い女の身空をもって、いかに人目がないとはいえ、楽書きを書いて行こうとは、白痴でなければ狂人でなければならない。