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むすめえんじゅつし

娘煙術師

国枝 史郎

「朝日新聞」1928(昭和3)年8月26日~1929(昭和4)年2月22日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 267,766 字 · 530 页

青空文庫

と、ポツンと音がした。昼間の間に部屋の中へ、こっそり忍び込んでいたのでもあろう、一匹の蟋蟀が飛んで来た。長い触鬚をピラピラと揺すって、巨大な蚤のような形をして燭台の脚の下にうずくまっている。いかにも初秋の夜らしかった。

「わけてもこのごろは私たちの一家は、つけ狙われておりますのに、あのような物騒な空屋敷などへ、しげしげおでかけなさいますのは不安至極に存じますよ」同じようなことをいいながら、小次郎は蟋蟀へ眼をやった。「あの石置き場の空屋敷は、いやなところでございます。恐ろしい所でございます。娼婦とゴロン棒と食い詰め者と、悪党どもの巣でございますもの」

しかし鈴江は微笑したばかりで、顔も上げなければ返辞もしない。針の手を進めて行くばかりである。

「私も二、三度は参りました。自分から進んで参ったのではなくて、兄上や姉上に無理強いをされて、やむを得ず参ったのではございますが。……行けば行くほど私にとりましてはあの石置き場の空屋敷は、いやなところでございます。何があそこにはあるでしょう? 腐った夜気、淫蕩の音色、麻痺した良心、不義悪徳、そのようなものばかりではございませんか。