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しんちょうき
新潮記
山本 周五郎
「北海道新聞」1943(昭和18)年6月12日~12月20日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 155,541 字 · 305 页
藤尾はそっと眼を押えた、「雨にぬかって、足場が悪うございました、それが却って兄の味方になり、片岡さまを突き伏せてしまったのです、それがあまり思いがけなかったのでしょうか、千葉、真柳のお二人は逃げだしておしまいになりました」
兄妹は長浜から船で備前へ渡り、大阪までいってそこからさらに船で尾張の宮へあがった。……兵馬の健康はそういう無理な旅で悪くなるばかりだった。駿河のくにへはいったのは十月はじめのよく晴れた日で、すでに雪を冠った富士山が、蒼穹をぬいてかっきりと聳えたっているのがみえた。兵馬はおおと叫び、燃えるような眸子を凝らしていつまでも霊峰の姿をうちまもっていた。
「そのとき兄の心にどのような想いが来つ去りつした事でございましょうか、どのような、兄はふいに富士へ登ろうといいだしました、実はそのまえ、大阪におりましたときから、兄はおりおり討手が跟けていると申しましたが、その討手がまだ跟け覘っているから、その眼を昏ますために富士へ登ってやりすごしてやろう、そう申すのでございます」
「本当に討手があなた方を跟けていたのですか」
「わたくしは少しも気づきませんでした」