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ろうごくのはなよめ

牢獄の花嫁

吉川 英治

「キング」大日本雄辯會講談社、1931(昭和6)年1月~12月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 162,213 字 · 325 页

青空文庫

よし、よし。そのまま、射返してやるから、矢を、これへ持て」

と、築山のうえに登って、そこから、手に取るように見える数寄屋川の向うの河岸へ手をかざした。

「はてな? ……それらしい人間も見あたらぬが、采女、そちの眼では、どうじゃ」

「わかりました。……あれにおります」

「どこに」

「川向うの民家の屋根に、ひとりの老人が立って、じっと、こっちを見ております」

「見えん。どこに?」

「もすこし、私の方に寄ってごらんなされませ。あの河岸添いの釣舟屋の屋根に、ひとりの老人が立っておるではございませぬか」

「あっ。これは妙だ!」

と、左近将監は、采女の指さきへ視線を向けるとすぐに、びっくりして、こうさけんだ。

「あれは、江戸の大捕手といわれた名与力、今では、鶉坂に隠退したはずの塙江漢にちがいない」

「や、や、殿。ごらんなさい。お屋敷の方へ向いて、拝んでおります」

「ふしぎなこともあるものだ。よもや、江漢老人、気が狂ったわけでもあるまいに、当屋敷へ矢文を射込んで、拝んでいるとは心得ぬことだ。……オオ何はともあれ」

と、左近将監が、にわかにそれを開いて一読してみると、まさしく、塙江漢の手蹟である。