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やなぎばしものがたり
柳橋物語
山本 周五郎
前編「椿 創刊号」山本周五郎一人雑誌、1946(昭和21)年7月<br>中・後編「新青年」1949(昭和24)年1月~3月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 104,300 字 · 202 页
と喚いたこと、なにかを取出したり包んだりする夫婦のひどく狼狽したようす、すぐ近くで「水だ、水だ、みんな逃げろ」と呼びたてる声がしたこと、幸太郎を背負って、てまわりの物を包んで、お常の手から奪うようにかなり大きな包を受取って、裏へ出るとそこがもう膝につく水だったこと、まっ暗な夜空に遠くの寺で撞く早鐘や半鐘の音が、女や子供たちの呼び交わす悲鳴とともに、悪夢のなかで聞くようなすさまじい響きを伝えていたことなど、殆んどがきれぎれの印象としてしか、残っていなかった――そのなかで忘れることのできないのは、背に負った幸太郎のことである。おせんは怖がらせまいと思って、絶えずなにかしら話しかけていた。
「ほらじゃぶじゃぶ、おもちろいわねえ、じゃぶじゃぶ、みんなしてじゃぶじゃぶ、幸坊も大きくなったらじゃぶじゃぶねえ」
「ああちゃん、ばぶばぶ、おもちよいね、はは」
子供は背中ではねた。笑いごえもたてた。しかし同時に震えていた。怖いのだ、怖いけれども自分でそれをまぎらわそうとしている、こんな幼い幸太郎が、……おせんはいじらしさに胸ぐるしくなり、いくら拭いても涙が出てきてしかたがなかった。