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やなぎばしものがたり
柳橋物語
山本 周五郎
前編「椿 創刊号」山本周五郎一人雑誌、1946(昭和21)年7月<br>中・後編「新青年」1949(昭和24)年1月~3月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 104,300 字 · 202 页
「お祖父さんのおそいこと」手許が暗くなりだしたので、おせんはそう呟きながら縫物を片づけ、膳立てをするために立った。汁のかげんはちょうどよかった、いちど下ろして、燗をする湯を掛け、漬物を出した。もう帰りそうなものだと思いながら、足音のするたびに勝手口の簾を透かして見た、然しすっかり昏れて行燈の火をいれても源六の帰るようすはなかった、「……どうかしたのかしら、少しおそすぎるわね」すっかり支度のできた膳を前にして、おせんはふと、もの淋しい気持におそわれた。……大川端の茶店には、もう涼み客が出はじめたのであろう、時どき三味線の音や、人のざわめきが遠く聞えてくる、そのもの音の遠さと賑やかさは、まるで過去からの呼びごえのように遙かで、夏の宵の侘しさをいっそう際だてるように思えた。
「そこだそこだ、その障子の立ててある家がそうだ」
とつぜん表のほうでそういう声がした。
「……いま明けるからそのまま入れよう、しずかにしずかに」
そして誰かが店の障子を明けた。おせんは不吉な予感にぎょっとしながら立った。入って来たのは同じ研屋なかまの久造という人だった。おせんの眼はその人よりも、そのうしろに四五人の男たちが、蔽いを掛けた戸板を担いでいるのを見た、そして思わずあっと叫びごえをあげた。