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ろうごくのはなよめ
牢獄の花嫁
吉川 英治
「キング」大日本雄辯會講談社、1931(昭和6)年1月~12月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 162,213 字 · 325 页
「かわいそうに……」
彼は、反りの橋の欄干に、頬づえをのせて、つぶやいた。そこから、奉行所の建物や森が、黒く見えた。
「郁次郎の命も、あと、たった一刻だ。ここから、お念仏でも、唱えてやろうか」
だが、彼の顔に現されたのは、哀傷の表情ではなく、深悪な苦笑だった。
「どれ、俺も、明けねえうちに……」
すたすたと、彼は、歩き出した。と――橋のたもと。
鷺のように、ひとりの、うす鼠色の宗服を着た虚無僧が、柳の下に佇んでいた。じいっと、水のながれを見つめていた。
ぎくとしたように、覆面は、足をとめた。
さっと、迅い歩足が、その後ろをかすめたので、虚無僧は、くるりと、天蓋をふり向けて、
「おや?」
と、見送った。
「気のせいかしら? ……」
つぶやきながら、歩き出して、そしてまた、
「よく似ていらっしゃる。だが、奉行所の獄中においで遊ばす郁次郎様が、外をあるいているはずはない」
と、自分の迷いへ、打ち消すように、言った。
虚無僧は、花世であった。
彼女の足は、いつとはなく、奉行所の方へ、人なき夜をさえ忍びやかに、運ばれて行った。恋人のいる獄舎の塀の外を、夢遊病者のように、めぐって歩いた。