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ひのとびら

火の扉

岸田 国士

「時事新報」1944(昭和19)年1月1日~7日、1月9日~2月25日、3月1日~3月5日、3月7日~3月8日、3月11日~3月15日、3月18日~3月21日、3月25日、3月27日~3月29日、4月1日~4月3日、4月7日~4月11日、4月15日~4月19日、4月24日~5月4日、5月6日~5月9日、5月13日~5月17日、5月20日、5月22日~5月24日、5月27日~5月31日、6月3日~6月8日、6月12日~6月17日、6月19日~6月22日、6月24日~6月26日、6月28日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 129,467 字 · 257 页

青空文庫

五

天竜の河づらにもやがながれ、微風に麦はそよぎ、丘の上の町のひがちらほらとつきはじめた。

ハノイの植物園のことをふと思い出す。日の暮れかゝる時分になると、重くよどんだ空気のなかで、むせかえるような香りが一面にたゞよつてくる、あの瞬間だが、しかし、市ノ瀬牧人は、なぜ、ものみな淡くさわやかなゆうべに、そんな印象を呼びさましたか?

五

むせるような亜熱帯の花の香りは、あからさまに言えば、彼の胸にきざしている井出夫人へのやみがたい恋情のひとつのかたちなのであるが、彼自身は、そんなことは意識してはいない。たゞ、漫然と、その香りにさそわれるように、井出夫人のすまいのそばへさしかゝる。大きな竹やぶを背負い、白壁がぐるつと坪庭を囲み、旧家らしい構えの母屋が奥深いものをつゝんでいるこの一郭を、彼は、それが池内なにがしという大地主の屋敷であることなどは忘れてしまい、井出康子という端麗な未亡人をそこのあるじにみたてゝ、なにか物語めいた空想をしてみる。それは、またとなく神秘的な、心のおどる遊戯であつた。

彼、市ノ瀬牧人は、この井出夫人の「やかた」の前を、しばらく、行きつもどりつする。