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しんちょうき

新潮記

山本 周五郎

「北海道新聞」1943(昭和18)年6月12日~12月20日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 155,541 字 · 305 页

青空文庫

「お帰りなさいますか」梅八はじっと客を見あげた、相手はそれを受けてにっと微笑した、「もうお眼にはかかれませんね」

そう云うと、寅寿は黙って頷いたが、ふと手にした笛を袋のままさしだした。

「餞別に遣わそう」「……」梅八は躊躇せず、つつましく両手で受け取った、寅寿はやはり低い声で、「鈴虫という銘だ」とそう云った。

女中たちの提灯に送られて、来たときの萩と薄の小径を通って出た。云いたいことが胸いっぱいにあったけれど、客の寂しげな沈黙に圧されて、梅八はついになにごとも云えなかった。

客は吾妻橋であがり、梅八はそのまま舟伊の桟橋まで舟で帰った。四五たびしか会わぬ客、そしてもう会う折はないと思える客、考えてみるとそれは夢のようにもはかないものだった。殊に今宵の出来事は、それを一層なにか物語めいた感じにして、いかにもつよい印象を梅八の心に刻みつけたのである。――そうだ、このままのほうがよい、お住居も御身分も知れず、お名さえもしかとは知らないままに、笛を餞別にくだすったきり二度とお眼にもかかれない、これでよかった。近づいて来る舟伊の桟橋の灯をみまもりながら、梅八は若やいだ感傷さえ覚えながらじっと笛をかき抱いていた。