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しんちょうき

新潮記

山本 周五郎

「北海道新聞」1943(昭和18)年6月12日~12月20日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 155,541 字 · 305 页

青空文庫

由比から山を見て急に思いついたものだった。糒や乾し味噌などを買うまで大助は信じられない顔つきをしていた。大宮口の宿でもとめられたし、宮守の老人にも忠告されたが、かれは構わず登った。どうしてそんなことをする必要があったのか。説明はいくらでもつく。かれは常に「真実」ということを生きる目標にしていた。ごまかしのないもの、割切れたもの、観念にしろ行為にしろ「その場凌ぎ」ということを最も軽侮した。けれどもなかなかそう「真実」が世間に転がっているわけではない。人との関係、世間との関係、みな多くは妥協とごまかしに満ちている。青年の或る時期にはそれが耐えがたく眼につくものだ。ことにかれのような複雑な生いたちをもった者には一層のことである。ひと口に云えば富士の秀抜な、清浄無垢な山容を見あげたとき、かれはそこに云いようのない「真実」の姿があると感じたのだ。なにもかも捨ててそのふところへとびこみたい、山の本体へじかにおのれのからだと心をぶっつけたい、そういう衝動に駆られたのである。

――そうだ、あのときはたしかにそう感じた、あそこにすべてがあると思えた、けれどもそれが全部だったかどうか、あの衝動的な登山が、そういう観念上の追求だけにとどまっていたかどうか。