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しんちょうき

新潮記

山本 周五郎

「北海道新聞」1943(昭和18)年6月12日~12月20日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 155,541 字 · 305 页

青空文庫

「……ありがとう」

「まことに、ふつつか者でございますから」

きっとくいしばる歯のあいだから、抑えかねた嗚咽が洩れ、藤尾は両手をついたまま、背に波をうたせてすすりあげた……そのとき大助の戻って来る足音が、戸口のほうに聞えて来た。

「早水さん、手が廻ったよ」

大助はそう云いながらはいって来た。藤尾ははじかれたように座をしさったが、秀之進はそれを押し止めた。

「いいからそこにおいでなさい」

「いま店先を叩いている」大助はさすがに色を変えていた、「此処へ来ながらようすを見ると、この屋敷のまわりへもすっかり人数が配られたらしい、出るなら今のうちだ」

「まあ坐れよ」秀之進はしずかに云った、「藤尾どのに話をして、いま承諾を得たところだ、却って悲運に誘う結果となるかも知れぬが、このような時代と事情のゆえに、すべてを忍んで承知して貰った、まことに勝手だが、大さんを仲人がわりにかたちばかりだが盃を交わしたいと思う、済まないがその支度をしてくれないか」

「それは心得たが、しかし、いや心得た」

大助は厨へとんでいった。そして銚子と盃を持って戻ったとき、表の店のほうで雨戸でも蹴やぶるような、すさまじい物音が聞え、人々の喚き騒ぐのが、夜の空気を震動させた。