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やなぎばしものがたり
柳橋物語
山本 周五郎
前編「椿 創刊号」山本周五郎一人雑誌、1946(昭和21)年7月<br>中・後編「新青年」1949(昭和24)年1月~3月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 104,300 字 · 202 页
「そっちへいっちゃだめじゃねえか、だめだって云ってるじゃねえか、ばか」
とつぜんこう喚きだす者がいた。
「あの火が見えねえか、よね公、焼け死んじまうぞ、よね公、よね公、ばか」
そしてその喚きはすぐにうううという低い絞るような嗚咽になった。だがそのまわりにいる人たちはなにも云わず、振返りもしない、そんな喚きごえなど聞きもしなかったようである。いたましいその嗚咽はやがて鼻唄のような調子になり、まもなくかすれかすれに消えていった。
おせんは痴呆のように惘然として、この人々といっしょに動いたり停ったりしていた。抱いている赤児が泣きだすと、鈍い手つきで布子半纏をかき合せたり、ぼんやりと頬ずりをしたりするが、すぐにまた放心したような焦点の狂った眼をあらぬ方へそらしてしまう。時どきなにかが意識の表をかすめると、あらゆる神経がひきつり収縮するので、からだじゅうがぴくぴくと激しく痙攣する。それと同時にはっと夢から醒めたような気持になるが、それは極めて短い刹那のことで、すぐに頭は朦朧となり、思考はふかい濃霧に包まれるように昏んでしまう。肉躰も精神もすっかり麻痺して、自分がいまなにをしているかも、どうしてそんな処に立っているかもわからなかった。