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やなぎばしものがたり
柳橋物語
山本 周五郎
前編「椿 創刊号」山本周五郎一人雑誌、1946(昭和21)年7月<br>中・後編「新青年」1949(昭和24)年1月~3月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 104,300 字 · 202 页
――ただ時をきっていろいろな幻想があたまのなかを去来する、幼いころに浅草寺の虫干しで見た地獄絵のような、赤い怖ろしい火焔がめらめらと舌を吐くさま、ふりみだした髪の毛から青い火をはなちながら、その火焔の中へとびこんでゆく女の姿、渦を巻いておそいかかる咽を灼くような熱い烈風、嘘のように平安なお祖父さんの寝顔、そしてごうごうと咆え狂う焔の音のなかから、哀訴しむせび泣くようなあの声が聞える。
――おせんちゃん、おらあ苦しかったぜ、本当におらあ辛かったぜ、おせんちゃん。おせんは濁った力のない眼をみはり、唇をだらんとあけて宙を見上げる、なんの感動もあらわれない白痴そのままの表情だ。それから急に眉をしかめ、眼をつむって頭を振る、そういう幻視や幻聴を払いのけたいとでもいうように、――赤児はぐずぐずと泣きだし、小さな唇でなにかを舐めるような音をさせた。おせんは機械的に頬ずりをし、その唇へそっと自分の舌をさしいれた。赤児はとびつくように口をすり寄せ、びっくりするほどのちからでおせんの舌を吸う、ひじょうな力でちゅうちゅうと音を立てて吸うが、やがて口を放すとひき裂けるような声で泣きだすのであった。