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しんちょうき
新潮記
山本 周五郎
「北海道新聞」1943(昭和18)年6月12日~12月20日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 155,541 字 · 305 页
ただそこに悄然とうなだれている客の、いかにもうちしおれた姿がたまらなかった。
「笛を聞かせて頂けませんか」
梅八はしずかにそう云った。……この客とも、おそらくは今宵かぎりに、ちがいない。そう思いながら。寅寿はやはり意志を喪った者のように、黙って笛を袋からとりだした。大峰と矢田部の居どころを教えたときのように、まるで糸に操られる木偶のような、のろのろとした態度だった。……そして、歌口をしめして吹きはじめた。寅寿が意志力を喪った者のようにみえるのは、しかしただ表面だけのことにすぎない、かれは股肱の士二人を敵に売った。それが敗北であることはたしかだが、それで旗を巻くかれではなかった。あらゆる力を喪失したようにみえながら、その眉の裏ではやくも窮境打開の策を案じていた。すなわち、股肱の士を敵に売ったこと、そのことを反転しておのれの運命の挽回の資にしようというのである。そしていま笛を吹きながら、かれの胸裡にはすでに、その緒口がひらけかかってさえいた。
武田魁介が指摘したように、寅寿の位置が危険に瀕しているのは事実だが、真因がどうあろうと、ひとたび斉昭を隠居させるところまで実権をにぎったかれは、斉昭の復活と同時に、その実権の骨を失ったことは否定できない。