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しんちょうき

新潮記

山本 周五郎

「北海道新聞」1943(昭和18)年6月12日~12月20日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 155,541 字 · 305 页

青空文庫

ふと囁く声が聞えた。

「……ゆるせ」

秀之進は全身を耳にした。

「父をゆるせ」

もういちど聞えた。口のなかでそっと囁いたのである。こちらへ向って云うよりも、自分の心のなかの呟きのように微かだった。

秀之進はじっと眼を閉じた。やや暫くしてぎっと廊下が鳴った。障子へ手をかけるような音がした。けれどもそれは聞き誤りで、秀之進が身を起こそうとするより早く、足音はしずかに奥のほうへと去っていった。

――やっぱりそうか、来客に仮託して会おうとしなかった父の気持が、いまかれにはわかると思えた。夜陰にそっとおとずれ、しかもやっぱり障子をあけることができずに去った気持も……。

「ゆるせと仰せられた」秀之進はそっと呟いた。かれの眼尻から泪がすっと頬へ伝わった。

明くる朝の朝食も、宗兵衛は客たちといっしょだったが、秀之進の分は別に運ばれて来た。かれは奥の部屋の賑やかな談笑の声を聞きながら独り侘しく箸をとった。

食事が終ると間もなく、「唯今、あるじがお眼にかかります」と若い家士が伝えに来て、間もなく宗兵衛があらわれた。つかつかと廊下を踏んで来て、冷やかに部屋へはいり、むずと相対して坐った。