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じろうものがたり

次郎物語

下村 湖人

01 第一部

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 159,223 字 · 320 页

青空文庫

その卵焼が、今彼の眼の前に、誰にも顧みられないで、冷たく皿の中にころがっている。彼は何としても自分を制することが出来なかった。

しかし、彼は手を伸ばす前に、先す茶の間の方を見た。母が出て来るにはまだちょっと間がありそうだった。それから、庭を歩きまわっている父を見た。父は丁度あちら向きになって歩き出したところである。

彼はすばやく卵焼を掴んで、口の中に押しこんだ。

「次郎、星が飛んだぞ。ほら。」

次郎は、だしぬけに父にそう言われて、飛び上るほどびっくりした。そして、父は何も知らないで遠くの空を見ているんだと解ってからも、思い切って卵焼を噛むことが出来なかった。

「うむ……」

彼は返事とも質問ともつかない妙な声を出した。そして、急いで縁先にうつ伏しになって、下駄を探すような恰好をしながら、忙しく口を動かした。

彼が下駄をはいて、父のそばに立った時には、彼はもうけろりとしていた。たった今、喉を通ったばかりの卵焼のあと味が、まだ幾分口の中に残っているのを楽しみながら、彼は神妙らしく、父が見ている空の方向に視線を注いだ。

そこへお民が茣蓙を運んで来て、それを縁台に拡げた。