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こきょうしちじゅうねん
故郷七十年
柳田 国男
「神戸新聞」神戸新聞社、1958(昭和33)年1月9日~9月14日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 257,350 字 · 507 页
母などは多分一生の間しみじみとあいさつをしたこともなかろう。それがたった一度の頼みで、この厄介者をひきうけてくれたことは、いま考えても不審のようであるが、これは多分学問への大きな愛情と、つぎには主人の判断を重視した、前々からの家風であったろう。そう思って、いつまでも私は三木家の先代の人柄を懐しがっているのである。
客でもないかぎりはめったに表へは出ず、何をしてござるか知らぬような日が多かったが、私が裏座敷の二階の本箱の間に入っておとなしく本を立読みしている時には、妙に段梯子の下に来て、声をかけられることが何度かあった。細かく終いまで読み通したい本があったら、それをそっくり持って降りることも許されるのだが、名も聞かぬような本があまり多いので、つい目移りがして次々と本箱の蓋をとる。中には謡曲の本だの、草双紙だの、用もないのにひっかかって半日を潰してしまう日も折にはあった。
それよりももっと心残りなのは、若死をせられた先々代の主人の日記なり、書留められたものの中から、松岡小鶴と往復された漢文の原稿でも見出せなかったものか。まだそのころは、あちらのおばあ様も元気で、何でも答えて下さったのに、そこまでは私も気がつかず、また思い出して下さる人もなかった。